あああああ〜
今年もあと1日ですよ、奥さんっ。
あっしはいま、
しなきゃならないことチョモランマで、
うんざりして
キッチンの床に座りこんでおるんだよー。
何から手をつけたらいーやら。
誰か助けてー。
ま、そんなわけでこちらに逃避しとります。
でー。
この時期恒例(笑)年末の長文。
※写真は本文と関係ありませんっ。
➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖
【書くこと…】
わたくし、
かれこれ、30年以上、いわゆる書く仕事をしてきました。
この前、ある方に、
壱子さんはいったい何をされている方なのか、さっぱりわかりません…と
言われ、あちゃーっ、
となりましたが、本業は書くことです。
一応会社もしており、
企業のブランディングやリブランディング、新商品の開発及び、マーケティング、コンサルティングなどのお仕事も手掛けております。
(あ、お仕事のご用命は喜んでFBのメッセージまでw)
でも、
メインは…と言うか好きなのは、
やっぱり、取材して、書くと言うこと。
この前、ある仕事仲間に、
私が10年前ぐらいに、
送ったメールが見つかったよ、
なつかしいでしょ?
と、送り返してくれたんですが、
そこには、
私がこれまで、なんとか書き続けてこれた、原点みたいなことが書かれていて、
自分で書いたメールなのに、
忘れていたこともたくさんありました。
私がはじめてこの世界に入ったきっかけが、読売新聞でアルバイトしていた…と言うことも、すっかり忘れていて、
びっくりしました。
読売新聞では、元読売新聞局次長の黒田清さんにとても可愛がっていただきました。
一応、こう見えてもわたくし、新聞出身です(笑)
黒田さんは、ご存知の方も多いと思いますが、その業績の一部を、Wikipediaから抜粋しますと、
[大阪読売新聞社(現・読売新聞大阪本社)入社。
社会畑を歩み、1976年に社会部長就任。以後、この社会部チームの記者は「黒田軍団」として注目を集め、黒田自身だけでなく、軍団の一員だった大谷昭宏らがジャーナリストとして活躍し注目を集める。
1979年1月におきた三菱銀行人質事件の際、新聞紙上に事件当事者のみでなく、取材する記者側の動きもドキュメントとして報道。
それは事件が膠着状態で記者から上ってきたドキュメントの原稿が数行しかないのを見た清が「ならば、自分たちの動きを書け!」と叱咤したのがきっかけと言われており、
新しい報道の手法として反響を呼んだ]
いわゆる社会派バリバリのジャーナリストです。
でも、素顔はめちゃくちゃチャーミングで、あったかくて、
良く食べ、良く飲み、笑う(怒ると恐いけど)大好きな人でした。
読売新聞を退職されてからも、
博多にふぐを食べに連れて行ってもらったり、ごきげんな酒席にも良く呼んで頂きました。
黒田さんのお陰で本当にたくさんのことを知り、素晴らしい人々に
出会うことも出来ました。
黒田さんの、
お葬式の日のことは、忘れられません。
入院されていて、
早くお見舞いに行かなきゃと
思いつつ、海外出張から帰国した翌々日に亡くなられ、
葬儀にかけつけました。
告別式には,日本のTV,新聞,出版はじめメディア&マスコミ関係者全て
が顔を揃えたという感じで、著名な作家やジャーナリストの人たちも多勢来られていました。
が、その人たちよりも先に,
黒田さんを慕って告別式にやって来た、
市井の人々に、まず先にお焼香してもらいたい…と言う、黒田さんの遺言が読まれ、ああ、本当に彼らしい告別式だったなぁ…と、
いまもあの日のことを思い出します。
私に原稿を書く全てを教えてくださった大先輩でもあります。
黒田さんから教わったことは、たくさんありますが、とりわけ、この言葉は、忘れられません。
ある日のこと。
私が書いた原稿を編集者にダメ出しされ、いや、もういったい何を書きゃいーんだ!と、
書く根本からわからなくなったことがありました。
で、
黒田さんに泣きついたんです。
「黒田さん、
私もう原稿書けません・・・
何を書いたらいいのか、
わからなくなってきました」
と言うと、彼は優しく笑って、
こう言ったんです。
「壱子ちゃん。 原稿はな、
手紙やねん。
好きな人に手紙書くつもりで
自分の言いたいこと、
書いたらええんや」
そうか、原稿は、
手紙なんだ…。
以来私は、そのときどきに、
自分が伝えたい人に、
伝えたいことを、手紙のように、
書いてきたように思います。
今も書くことは私にとってほんとにしんどい作業ですが、
これまで何とか書き続けて来れたのは、
黒田さんのお陰なんじゃないかな?と思うのです。
そんなわけで、
この投稿も、
みなさまへの手紙。
ちょっと自慢多いけどね(≧∇≦)
#書くこと #一生書いていたい #でも最近言葉が出てきません #いまあることについてモーレツに書きたい #しかし書くと肩が凝るし#シワも出来る気がする #でも書かなきゃ